【評伝】キア・スターマー新首相 インディー・キッドからイギリス首相になるまで

スターマー政権の初閣議(6日、イギリス首相官邸)

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画像説明, スターマー政権の初閣議(6日、イギリス首相官邸)

ニック・アードリー、BBC政治記者

サー・キア・スターマーは3年前、労働党の党首をやめようか、真剣に考えていた。

2021年5月のことだ。労働党は、イングランド北部ハートリプールの下院補選で、ボリス・ジョンソン首相(当時)率いる保守党に敗れたばかりだった。

この選挙区で労働党が敗れたのは、初めてのことだった。 わずか3年前のことだが、今となってはこの間に政界では一生分の時間が過ぎていったかのような感覚だ。

労働党を野党から与党にした党首は、サー・キアでわずか5人目だ。

労働党は2019年の前回総選挙で、歴史的な惨敗を経験した。それを経ての、今回の結果だ。

ただし、2021年のハートリプール補選の敗北は、サー・キアの首相官邸への旅路が決して順調ではなかったことを示す。というよりもむしろ、彼の人生とキャリアはかなり長いこと、首相就任とはまったく違う道をたどっていた。

赤ちゃん時代のスターマー首相

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画像説明, スターマー氏は労働党支持の両親の間に生まれた

キア・スターマー氏は4人きょうだいの1人で、ケント州とサリー州の境にあるオクステッドという町で育った。

工具職人の父と看護師の母に育てられた。母はスティル病という衰弱性の関節炎を患っていた。

1970年代の高インフレ時代に育つのがいかに厳しかったか、サー・キアは口にしている。

「労働者階級の人間は、借金を恐れているものです」と、選挙戦中にサー・キアは話した

「私の母も父も、借金を怖がっていました。なので借金するよりはと、どの請求書をあえて払わないか、選んでいました」

払わないことにしたのは、電話代だったという。止められても一番困らないという理由だった。

若いころのサー・キア(右端)は音楽が得意で、フルート、ピアノ、バイオリン、リコーダーを演奏した

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画像説明, 若い頃のサー・キア(右端)は音楽が得意で、フルート、ピアノ、バイオリン、リコーダーを演奏した

若い頃のサー・キアは忙しかった。

サッカーに夢中だった(ポジションはもちろんミッドフィールドの中道左派ならぬセンターレフトだった)。 音楽の才能もあり、ノーマン・クック氏にバイオ���ンを習っていた(クック氏は後にチャートを席巻するミュージシャン、ファットボーイ・スリムとなった)。

サー・キアには反抗的な一面もあった。 友人たちと一緒に小遣い稼ぎのため、フランスのビーチでアイスクリームを違法に売っていて、警察に捕まったこともある。

では、政治は?  その兆候は常にあった。たとえば、「キア」という名前は、労働党の初代党首、キア・ハーディーにちなんでつけられたものだ。

リーズ大の学生時代(手前)、一緒に住んでいた仲間たちと一緒に

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画像説明, リーズ大の学生時代(手前)、一緒に住んでいた仲間たちと一緒に

サー・キアは下院議員になる前から、左派政治に多少かかわっていた。

学校では、労働党の青年組織「ヤング・ソーシャリスト」に参加した。

高校卒業後は親族で初めて大学に進み、まずはリーズ大学で法律を学び、続いてオックスフォード大学でも法律を学んだ。

リーズ大では、ザ・スミスやウェディング・プレゼント、オレンジ・ジュースやアズテック・カメラといった1980年代のインディーズ・ミュージックに影響を受けた。

彼の伝記を書いているトム・ボールド���ィン氏によると、サー・キアの学生時代のお気に入りの飲み物はビールとサイダーを混ぜたもの、つまり「スネークバイト」だった。ポテトフライをカレーソースと食べる「カリー・アンド・チップス」も好物だった。

卒業からしばらくの間、サー・キアはロンドン北部で、売春宿の上に住んでいた。

リーズ大の卒業式当日、両親のロドニーさんとジョセフィンさんと記念撮影

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画像説明, リーズ大の卒業式当日、父ロドニーさん、母ジョセフィンさんと

しかし当時の彼についてそれよりも注目に値するのは、このころすでに仕事中毒という評判を築き始めていたことだ。懸命に働き、人権派弁護士として成功し、評価を確立していった。

さらにこのころのサー・キアは、「社会主義弁護士」という雑誌にさかんに寄稿を重ね、左派活動を続けた。

しかし、政治への関心は二の次で、ここから約20年間、サー・キアは法律家としてのキャリアに専念する。

2008年にはイングランドとウェールズの検察トップ、公訴局長に就任した。

検察トップだったこの時期は、自分が公共に奉仕してきたことの一例だと、サー・キアは好んで語る。テロ集団を起訴していたのだと、よく言う。しかし、ほかには何をしていたのだろう。

サー・キアは弁護士生活のほとんどを、法廷弁護人として過ごした

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画像説明, サー・キアは弁護士生活のほとんどを、法廷弁護人として過ごした

保守党と自由民主党が連立を組んだ2010~15年の政権下では、検察庁の予算は25%以上も削減され、何をどう削るか公訴局長としてサー・キアは取り組む羽目になった。

さらに、2009年に大問題になった下院議員による経費不正請求をめぐり、どの議員を起訴するかの重要判断を指揮した。自由民主党からエネルギー・気候変動担当相として入閣していたクリス・フーン議員が、自分のスピード違反の点数を妻に肩代わりさせた事件でも、現職閣僚の起訴を指揮した(フーン議員は司法妨害罪で有罪になり収監された)。

検察トップとしての働きに対して、軍人や公務員などに贈られる「バス勲章ナイト・コマンダー」の地位を2014年新年の叙勲で与えられ、「サー・キア」となった。

検察トップとしての在任期間が終わる頃、サー・キアはBBCのインタビューで、司法制度がい��だに、弱い立場の被害者を十分に守っていないと認めた。

遅い転機

転機が訪れたのは、52歳の時だった。

2015年5月の総選挙で、サー・キアは労働党が確実に勝てる「安全」な選挙区、ロンドンのホルボンおよびセントパンクラス選挙区から出馬し、快勝した。 つまり、リシ・スーナク前首相と同じ日に、下院議員になったことになる。

しかし、当時は労働党にとって決して幸せな時期ではなかった。

総選挙で勝ったのは保守党で、ジェレミー・コービン氏が新しく労働党党首になると、党内の厳しい派閥争いが続いた。

 コービン氏をサー・キアが支持したことについては評価が割れている
画像説明, コービン氏をサー・キアが支持したことについては評価が割れている

役職のない一般議員から党首になるまでのサー・キアの道筋については、すでにたくさんのことが語られ、書かれてきた。ましてや今度は、党首から首相だ。それでもなお、指摘しておくべき事柄がいくつかある。

コービン氏は労働党党首になると、サー・キアを影の移民担当相にした。しかしこれは長続きしなかった。

サー・キアが1年足らずで辞任したからだ。ブレグジット(イギリスの欧州連合離脱)の是非を問う2016年6月の国民投票の後、労働党ではコービン党首を追い出そうと、影の閣僚が十数人も辞任した。サー・キアもその1人だった。

この時の「コービン降ろし」が失敗し、党首選でコービン氏が勝利すると、サー・キアは今度は影のブレグジット担当相として党幹部に戻った。

労働党の低迷期

コービン氏に対するサー・キアの姿勢は、時間と共に変化してきた。

2019年の時点で、BBCの朝の情報番組「ブレックファスト」で「ジェレミー・コービンは偉大な首相になる」というフレーズを声に出すよう求められると、サー・キアはそれに応じている。

その数カ月後にはBBCに対して、コービン氏を「100%」支持し、総選挙で勝つために協力すると述べた。

コービン氏の下で働くことを拒否する人もいるなかで、サー・キアは労働党幹部としてとどまった。そして、2019年12月の総選挙ではブレグジットに関する2度目の国民投票実施を支持するよう、コービン氏を説得することに一役買った。

この時の総選挙で、労働党は惨敗した。コービン氏は党首を辞任し、続く党首選でサー・キアが勝利した。

しかし、サー・キアが労働党党首になった当時は、ボリス・ジョンソン氏が当面はイギリスを治め続けるものと、大方はそう考えていた。

サー・キアは党の再建に貢献できる指導者だと、そういう意見をもつ人は多かった。しかし、労働党が彼を通じて政権を奪還するなど、そんなことを考えた人はほとんどいなかった。

野党時代の労働党党首として、サー・キアは党を大きく変えた

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画像説明, 野党時代の労働党党首として、サー・キアは党を大きく変えた

それはいつ変わったのか?  世論調査を見ればよくわかる。

2020年と、ハートリプール補選のあった2021年の間、サー・キア率いる労働党はほとんど常に、ジョンソン氏率いる保守党に支持率で後れを取っていた。

しかし、パンデミック対策のため複数人の集会が厳しく制限されていたロックダウンの最中に、首相官邸などでパーティーが相次いでいたことが報道されるようになると、情勢は変わり始めた。

世論調査結果の推移をみると、2021年11月の時点ではっきりと、労働党の支持率が保守党を抜いた。

さらに、リズ・トラス元首相の減税策で大混乱が生じると、労働党の支持率はますます保守党を上回るようになり、それはその後もずっと続いた。

「容赦ない」リーダー

サー・キアを支える仲間たちは、労働党の支持率アップは、労働党そのものが変わらなければあり得なかったと言う。労働党を変えるために、サー・キアは時に容赦なかった。

コービン前党首は下院の議員団から締め出され、最終的には労働党の公認候補として出馬することもできなかった。

経済政策は引き締められた。つまり、そのための支出は無理だと判断された政策は、破棄された。

サー・キアはイギリスの愛国精神を受け入れ、ユニオン・ジャックを演説の背景に使った。党大会では国歌「神よ王を守りたまえ」を歌うようにした。

「変化」というサー・キアのメッセージに、こうしたすべてが貢献した。今回の選挙戦を通じて彼は、自分は労働党を変えた、だからこそこの国を変えることもできるのだと主張し続けた。

サー・キアとヴィクトリア氏は2007年に結婚した

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画像説明, サー・キアとヴィクトリア氏は2007年に結婚した

選挙が終わった今、その結果は、スターマー家にとっても変化を意味する。

現在61歳のサー・キアは、2007年にヴィクトリア氏と結婚した。夫が首相として働く間、ヴィクトリア氏は国民保健サービス(NHS)の産業保健セラピストとして働き続ける方針だ。

夫が叙勲され「サー・キア」になった時点でその妻として「レイディ・スターマー」になったヴィクトリア氏は、これまで党大会や、支持者集会などに出席している。テイラー・スウィフト氏のライブでも、その姿が目撃された。しかし、過去の首相夫人のように目立つ形で、公の場で「首相夫人」として働くことはないだろうと思われている。

サー・キアは過去にも、政界重鎮としての自分の立場が家族に、特に10代の息子と娘に与える影響について、懸念を示している。

首相はすでに2021年の時点でBBCに、「自分の子供たちのことが心配だ。眠れない夜を過ごすとするなら、だいたいは子供たちのことが心配だからだ。自分が政治家として現役の間、いったいどうやって子供たちを守ったらいいのか」と話していた。

スターマー家は、決して順調ではなかった厳しい旅路の末に、ダウニング街に移り住むことになった。そしてだからこそ、家族をどう守るのかという難題に、一家は直面することになる。