10年前に解散した最推しのこと

 

カリスマ性のある特定の存在に大勢で熱狂する一体感、みたいなのが好きだから自分にはカルトにハマる素質が絶対にある。「我々は崇拝癖がある」と以前友人と話したことがあるが本当にそうだからこわい。もし私がそうなったら止めてくれと言いたいが止められても絶対に聞くはずがないのですみやかに社会的に抹殺してほしい。
その熱量を一番健全に向けられるのでアイドルオタクやってる。
 
アイドルというジャンルそのものが好きで本当に節操なく開拓して熱狂したり応援したり遠くから眺めたりし続けてて、推せればなんでもいいっちゃいいみたいなスタンスもあるんだけど、いいわけねえだろふざけんなっていう存在が10年前に解散したbrand new idol society。
 
もう絶対にないと思ってた記憶には懐かしいとか思わないもんですね。
というか10年間絶対に懐かしがるものかと思ってたかもしれない。感傷的になどなるものかと。数えてもなかったから10年と聞いても長いともあっという間とも思わずそうなんだって感じだったけど、アホほど残業して30%引きの総菜買って帰った先週の金曜日、元メンバーのSNSで解散10周年記念フリーライブやるよって告知を見て、ああそっかーなんて思って、それから長いこと動かしてなかった脳の部分がびりびりして久しぶりと思った。
BiS追っかけてたときの自分に対して「あ、どうもお久しぶりです」みたいなそういう久しぶり。
 
何も焦ることはないのにそれからずっと焦って週末を過ごしてた。終わってホッとしてる。もう焦らなくていい何も追わなくていい。推してたときずっとこんな感じだったなと思った。
 
幸せになれる好きはたくさんあるしいるけどBiSで幸せになれたと思ったこと全然ない。
解散してホッとしてたんだよな。もう追わなくていい。
何回ライブ行っても足りなくて、たとえ最初の1回目から行ってたとしても十分だと思うことはたぶんなく、このグループにもっと前から出会っていたかったのではなくて自分の人生にもっと前からいてほしかった。もっと人生に食い込んでほしかった。もっと滅茶苦茶に追っかければ良かった。これでもうちょっと人生が滅茶苦茶にでもなれば良かった。自分の人生にそれくらいには関係してほしかった。
 
最初の最初の沼落ちの瞬間を鮮明に覚えてる。「ずっとほしかったのこれだったじゃん」って。すとんと、しっくりきて、新しい何かというよりは今まで足りなかったものだと思った。これ見つけるためにアイドルオタク始めたくらいに思った。そういうキモいこと考えるタイプのオタクに最初の1秒でなった。
逆にとか、こういうところがとか、ある意味とかそういう枕言葉なしで本当にシンプルに好きだったな。自分の好き全部これにしてアイデンティティ委ねてしまいたかった。
そうやってずっとまだ足りないと思い続けてたし今でも思ってるなって思ったのが今日のライブだった。
 
 
地下アイドル追っかけるのってねえ、楽しいんですよ。レベルの高いパフォーマンスや演出による感動が少ない(失礼ながら)代わりに、肉体的な充足感がすごい。目の前に生身の人間がいて、それを自分の足を使って文字通り追っかけている充足感。分母が小さいから自分1人分の存在や声が相対的にでかい。そういうところにいると相手がまるで自分の感情に直に触れてくるようで、自分の人生に直接関係している存在に思えてくる。それに加えてあの熱狂と一体感。
推しっていう存在も、楽だよね。自分にとって何が幸せか、嬉しいか悲しいか、そういった感情の根拠を託せる。
抜け出せない人は抜け出せない。
 
推し、という言葉は使いまくるが、推し活って言葉は外側の人間のためにある言葉な気がして自分は使わない。
開き直って自称してるけどアイドルオタクやってること良いことだとも誇りにも思わない。これを良い感情だと思わない。とにかく動機がカルトよりマシなやつとかだし、そうでなくとも「他の人にはわからない良さが自分たちだけはわかる」みたいな熱狂の欲求だから絶対にキモい。
なら書くなよって話なんだけど。
 
書くなよって話なんだけど、私は好きなものに対して「好き!!!!」の「!」の数だけでしか言い表せないことが嫌すぎてずっと言語化に執着して文章を書き続けてる。
 
書き続けてるんだけど、結局好きなものは好きだから好きとしか言えないんだよな~とも今日思った。何がいいのかと言われたら別に何も素晴らしくない。良いから好きなのではなく、好きだから私にとってだけはいいの最たるものがBiS。最推し、やっぱり推させてくれマジでたのむ。

ほとんど歌舞伎町タワーにケチャしてましたね。(一応ステージも映りました。)