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ホラーのプロが選んだ「本当に怖いベスト20」が紹介されている。 ホラーのプロとは、ホラー作家だったり編集者だったり、海外ホラーの翻訳家だったりホラー大好きな書店員だったりする。ベスト20のラインナップを見る限り、相当の目利きであることが分かる。 これがtwitterの人気投票だと、どうしても「売れてるホラー」に偏る。ベストセラーとは普段読まない人が買うからベストセラーになるのだから仕方がないのだが、どこかで見たリストになってしまう。 「売れてる」要素も押さえつつ、なぜそれが怖いのか、どうしてそれが「いま」なのかといった切り口も併せて説明しているので、流行に疎い私には重宝する一冊だった。 いまのホラーはモキュメンタリー(Mockumentary)が一大潮流だという。実際には存在しないものや、架空の出来事を、ドキュメンタリー形式で描くジャンルだ。実話系怪談や、ファウンド・フッテージ(撮影された
愛する人の死や、不幸な運命を描いた悲劇を、なぜ観るのか。 それも、絶頂からどん底までの落差が激しいほど、悲しみの振れ幅が大きいほど、より一層、好んで観たがる。これを「悲劇のパラドクス」と呼ぶ。イギリスの哲学者ヒュームは「悲劇について」でこう述べる。 巧みに作られた悲劇を観ている人たちが、悲しみや恐怖や不安その他の、それ自体においては不快で嫌な気持ちになる情念から受け取るものは、説明のつかない快楽のように見える ヒューム「悲劇について」(『道徳・政治・文学論集』所収) ここでは、ヒュームの主張を軸に、様々な角度から悲劇のパラドクスについて考える。 人の心は動きたがる まず、芸術作品に触れたときの情念について。 ヒュームはこう主張する―――怠惰で気乗りのしない状態ほど、精神にとって不愉快なものはないという。たとえ不愉快で陰鬱なものであっても、平坦で無味乾燥なものよりはうんとマシなのだ。圧迫感に
数学の公式集ってあるでしょ。よく使う関係式や定数や演算を、コンパクトにまとめたやつ。あれの物語版だと思ってほしい。 「なぜそうなのか」といった証明や由来は最小限にして、エッセンスしか載ってない。なので非常に薄い(なんと61頁!)。もし必要なら、自分で出典に当たってくれとばかりに参考文献だけは充実している。 この61頁に、「読者の興味をどうやって興味を惹くか」の基本的なセオリーがまとめられている。小説、マンガ、映画、演劇、どのジャンルにも共通して、物語を面白くするプロットの作り方がある。そして、そのプロットをどう転がせば、読み手や観客の魂を震わせ、深い感動をもたらすかが紹介されている。 いわば、物語作家の虎の巻なのだが、公式集であるが故に、注意すべき点がある。要点というか骨子しか書いていないので、不慣れな人には不親切かもしれぬ。 だから、本書の想定読者は2種類になる。 想定読者1:物語の作り
「意識とは何か」という問題のスナップショット。 新書サイズのわずか85ページで、神経生理学、科学哲学、心の哲学の学際領域をコンパクトに圧縮している。いわば意識のハードプロブレムの最前線を切り取った小論といえる。読む前と読んだ後で見え方が変わってしまう本をスゴ本を呼ぶのなら、本書はその名に相応しい。この問題の捉え方そのものが変わってしまったのだから。 例えば、「意識の問題はヒトの問題なのか?」という切り口だ。 提唱者のD.チャーマーズが掲げた「脳の物理的な状態と、感じる、見る、思うといった主観的な経験との関連性を解き明かす」という命題には、 「ヒトにとっての」 という語句が隠れている。 わたしは今まで、問題文そのものを疑うことをせず、マリーの部屋とかクオリアについて学んできた。だが、立ち止まって考えると変だ。意識の問題は 「生物にとっての」 という語句から考えるべきだ。 アナバチは「愚か」な
死ぬときに思い出す小説の一つ。 あれを読めば良かったとか、これがまだ途中だったとか、未練は必ずあるはずだ。どんなに読んでも足りることはないから。そんな後悔の中で、エピソードや描写を思い出し、読んでよかったと言える作品の一つが、『イギリス人の患者』だ。 映画が公開されたときだから、20年以上前に読んだのだが、いま再読しても美しい。詩的で情緒豊かに紡がれる、四人の男女の破壊された人生の物語だ。 あらすじはシンプルだ。 第二次世界大戦の終わり、イタリア北部の半ば廃墟となった修道院が舞台となる。そこで生活を共にするのは、看護婦のハナ、泥棒のカラヴァッジョ、インド人の工兵のキップ、そしてイギリス人の患者となる。人生のわずかな期間にすれ違う男女が、自身の半生を思い出す。 ただし、けっして読みやすい、ストレートなお話ではない。 時系列は無警告で前後するし、エピソードの粒度や解像度はバラバラだ。後になって
ミスや失敗をなくすため、ヒューマンエラーに厳罰を下すとどうなるか? 一つの事例が、2001年に起きた旅客機のニアミス事故だ。羽田発のJAL907便と、韓国発のJAL958便が駿河湾上空でニアミスを起こしたもの。幸いにも死者は無かったものの、多数の重軽傷者が出ており、一歩間違えれば航空史上最悪の結果を招いた可能性もあった。 事故の原因は航空管制官による「便名の言い間違い」にあるとし、指示をした管制官と訓練生の2名が刑事事件に問われることになる。裁判は最高裁まで行われ、最終的には2名とも有罪となり、失職する。判決文にこうある。 そもそも、被告人両名が航空管制官として緊張感をもって、意識を集中して仕事をしていれば、起こり得なかった事態である [Wikipedia:日本航空機駿河湾上空ニアミス事故] より 芳賀繁『失敗ゼロからの脱却』は、これに異を唱える。 事故は単一の人間のミスにより発生するので
おっさんになって再読すると、違った面が浮かび上がって面白い。 若いころに読んだときは、自己中男の醜さや、頭空っぽの女の美しさが印象的だった。自己陶酔的な語り手に鼻白んだことも覚えている。 だが、いま読み返すと、ギャッツビーのひたむきな愛が眩しく、可愛そうなくらい未熟で愚かに見える。人生を折り返して、やり直したくてもできなくなった親爺からすると、ギャッツビーの愚かしさは、一周回って愛おしいものになる。 ギャッツビーを「愚か」というのは言い過ぎじゃない? そういうツッコミが聞こえる。 貧乏な生まれながら身一つでのし上がって大金持ちになったギャッツビーが、有り余るカネを湯水のように使って夜な夜なパーティを開く―――愚かに見えるかもしれないが、ちゃんと理由があるからで、それを「愚か」と呼ぶのは言い過ぎだろう……というツッコミだ。 しかし、私が「愚か」と感じるのは、そこじゃない。例えば、語り手である
共通するテーマは、 「人間の科学」 だ。 「人間に関する科学」ではなく、「人間の科学」という言い方は、ちょっと奇異に聞こえるかもしれない。 なぜなら、科学とは人間が探求する知識体系であり、探求分野だから。「科学」の一語だけでこと足りる。わざわざ「人間の」と修飾語を付けているということは、人間じゃない存在、人間以上の存在が探求する領域を扱う科学だってあるかもしれない―――「人間の科学」は、そういう可能性を示唆している。 レム『虚数』に収録されている「GOLEM XIV」は、この可能性の先に存在する、非常に高い演算能力を持つAIだ。人間以上の知性を持つ存在が、「科学」を探求したらどうなるか? その結果を人間に対し、講義の形で伝えようとすると、何が語られるか―――を記した講義録が、「GOLEM XIV」になる。 人間が扱える処理能力や情報量は、人間のサイズに収まっている。コンピュータを使ってもい
面白い本に出会うコツは「これ面白いよ!オススメ!」と公言すること。すると、「それが面白いならコレなんてどう?」とオススメ返しされることがある。その面白さは高確率で「あたり」だ。 『太陽の簒奪者』なんてまさにそう。 『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を気に入った人には、『太陽の簒奪者』(野尻 抱介)も好きだと思うんですよね。太陽光が奪われていくという導入と、人類全体でそれを解決しようとするというところは似ているのですが、展開はだいぶ違います。ともに名作だと思います!https://t.co/SVTDQmHngG — Kazu SUZUKI (@kz_suzuki) February 12, 2024 野尻抱介『太陽の簒奪者』は、実は10年前に読んでいる。だから、ストーリーも展開もラストも全部知っている。 けれども、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を読んだ身で改めて読むと、めちゃくちゃ興奮し
イッキ読みした。物語はゆったりと進むのに、先を知りたくてページをめくってしまう。 この作品のテーマはここに集約されている。 ここには善悪の判断など無用だということを、カイアは知っていた。そこに悪意はなく、あるのはただ拍動する命だけなのだ。たとえ一部の者は犠牲になるとしても。生物学では、善と悪は基本的に同じであり、見る角度によって替わるものだと捉えられている。 生きること、ただ命をつないでいくことには善悪の区別などない。行為や結果について「善」や「悪」というレッテルを貼るのは人間の性であり、そこから自由であろうとすると、どういう人生になるかが物語られている。 「カイア」はこの物語の主人公だ。舞台は米国ノースカロライナ州の広大な湿地帯になる。親兄姉に見捨てられ、極貧の中、ただひとりで暮らす彼女は、貝を掘ったり魚を釣ったりして生き延びようとする。町の人々からはつまはじきにされる、貧困白人(ホワイ
見てくれ! これがサイエンス・フィクションの家系図だ。 図の左上に、SFの祖先「Fear and Wonder(恐れと驚き)」がある。 アニミズムや神話・伝説・迷信の流れと、テクノロジーや実験・観察・啓蒙主義の流れが混交し、自然科学とユートピアとロマン主義を養分として、ゴシック小説の巨大な畑が出来上がっている。 ゴシック小説から、科学と技術と恐怖を組み合わせた最初のSF『フランケンシュタイン』が生み出され、ウェルズやハクスリー、ヴェルヌ、アシモフ、ブラッドベリ、ギヴソン、イーガンを始めとする大きな流れがある。これらを支えてきたのはダイムノヴェル(10セントで買える大衆小説)やペーパーバックによる文学と漫画のメディアだ。 映像メディアからは月世界旅行やメトロポリスを始めとして、トワイライトゾーン、スタートレック、スターウォーズ、エイリアン、マトリックス、E.T.を代表とした巨大な流れがある。
「セックスロボットは悪なのか」 という議論がある。 精巧につくられた等身大のドールで、触れると温かい。センサーとAIにより、ユーザーが望む反応を学習して応答する、ロボット工学と人工知能の粋を集めたアンドロイドだ。 愛情を深め合うコミュニケーション手段としてのセックスが蔑ろにされ、女性蔑視や暴力へつながるかもしれない。一方で、感染症の心配もなく安心して愛情を注げるパートナーに救われる人もいるだろう。 あるいは、 「アンドロイドが運転する車が事故を起こしたら、誰に責任を問うべきか?」 という議論がある。 AIは人間よりも安全運転できるだろうから、自動運転をベースとした車社会を設計すべきだという意見がある。一方で、プログラムや学習データの不具合によってAIが暴走する可能性は残されており、その影響は計り知れないという人もいる。 こうした議論は、論点が噛み合わないか、漠然とした話になりがちだ。意識と
ホラーは2種類ある。 血みどろ臓物、怨念呪殺、ゴシック、ゾンビ、モンスター、SF、サイコなど、人を震え上がらせるホラー作品は様々だ。だが、あらゆるホラーは2つに分けることができる。 この2つを分けるのは、「枠」だ。枠の内側に留まっているものと、枠の外に出てくるもので、ホラーは2つに分けることができる。 「枠」とは、私が便宜上そう呼んでいるもので、例えば、恐ろしい絵が収まっている額縁になる。アマプラでホラーを観ているならPCのベゼル(モニター枠)になる。映画館ならスクリーンを縁取るカーテンだし、紙の本で読んでるなら、文字の周囲の余白を「枠」と置き換えてほしい。 「枠」を越境するもの つまり「枠」とは、コンテンツと、コンテンツ外を分け隔てる境界のことだ。 私たちは、本を開くとき、ゲームをするとき、映画館の暗がりに身を潜めるとき、まさにそうした行為によって、現実ではないホラーが始まることを意識す
はじめに 好きな本を持ち寄って、まったり熱く語り合う読書会、それがスゴ本オフ。 本に限らず、映画や音楽、ゲームや動画、なんでもあり。なぜ好きか、どう好きか、その作品が自分をどんな風に変えたのか、気のすむまで語り尽くす。 この読書会の素晴らしいところは、「それが好きならコレなんてどう?」と自分の推し本から皆のお薦めが、芋づる式に出てくるところ。まさに、わたしが知らないスゴ本を皆でお薦めしあう会なのだ。 今回のテーマは「マンガ」、何回読んでも爆笑してしまう作品や、ヘコんだときに癒してくれる短編集、価値観の原点となったマスターピースなど、様々な作品が集まった。いわゆるコミック本に限らず、アニメーションや物語詩など、王道から知る人ぞ知るやつ、直球変化球取り揃えて、キリがないほど集まった。 ▼気になるマンガに手が伸びる ▼懐かしいものから未知の作品まで ▼マンガが縁で「読み友」が増える まず私ことD
研究不正について、私の認識が間違っているのかもしれない。もし誤っているのであれば、指摘してほしい。 まず、2つのケースを紹介する。次に、私の判断を述べる。 ケース1 薬剤Xがタンパク質の血中濃度を上昇させるという仮説検証のため、動物実験を行った。薬剤Xの投与で濃度の平均値は増加することが判明したが、統計学的検定ではp=0.06と、有意水準の0.05にわずかに届かなかった。教授に相談したところ、追加実験を行うこと、さらに実験のたびに検定をして、p<0.05を得た時点で実験を終了するよう指示を受けた。 ケース2 疾患Yの重症化因子を調べるため、診療録から収集した疾患Y患者のデータを元に、臨床検査値と生活習慣の関連性を分析したところ、生活習慣Zを有している患者の予後が不良となる結果を得た。そこで「生活習慣Zを有する疾患Y患者は予後不良である」と学会発表した。 私の考えはこうだ。 ケース1は、 「
嫁様にお願いごとをするなら、食後が最適だ。 こづかいアップとか、相談しにくいことを持ちかけるベストなタイミングは、夕飯後のくつろいでいる時間帯だ。自然に話を持っていくのには創意工夫を要するが、ほぼ100%で了承される。長年の経験で身につけた夫の知恵と言っていい。 これ、私だけの経験則だと思っていたら、2011年の研究で実証されている。 ”Extraneous factors in judicial decisions” によると、司法判断に食事が影響するらしい。 調査対象は、仮釈放の審理になる。 服役中の囚人から提示された仮釈放の申請を認可するか、あるいは却下するか……という審理だ。裁判官は過去の事例や法的根拠を厳密に適用し、可否を判断するはずだ。 ところが、調査により奇妙な傾向が炙り出されている。それは1日に2回ある食事休憩だ。仮釈放の申請は、ほとんどが棄却となるのだが、休憩した直後の申
サブスクで見放題なのは知ってる。くり返し見たから。 けれど、映画館で観たらまるで違う作品だった。 音が違う。 ホームを吹き抜ける風の音や、覆いかぶさってくる波の轟音、ブレーキをかける列車の車輪が軋む不協和音が耳を聾するばかりで怖いくらいだった。そして沈黙。深々と降りしきる雪の「無音」がよく聴こえた。列車の連結部の鉄板の音が、第1話と第3話で違うことも分かった。液晶テレビのペラッペラなスピーカーとはまるで違う音響にどっぷり浸った。 光が違う。 恐ろしいほどの解像度で描かれる世界の広がりが、丸ごと目に入ってくる。第1話の暗く沈んだ冬の夜の闇と、第2話の広い青い海原と、そしてラストの桜吹雪と雪のひとひらが対照的で、闇と光の映像対比がやっと分かった。あの手紙を書いている机の単語帳に「confession」とあるのが分かったし、第1話で夜を駆けるアカゲラの翼が翻る様と、第2話で彼女が飛ばした紙飛行機
「なぜ、お客が望む通りに見積もりができないのか。顧客ファーストだろう?」とドヤ顔で言い放つマネージャーがいた。自社開発のソフトウェアを組み込む提案をしたときの話だ。 確かに顧客ファーストは重要だが、お客の要望をそのまま実現しようとすると、ソフト改修に設計思想レベルでインパクトがあり、コストも時間も莫大なものになる。見積もるだけでも大変だし、べらぼうな額になるのは必至なので、こう返答した。 「お客のいう通りに見積もるのが仕事じゃないです。お客が目指すビジネスにどう貢献できるかを提案するのが仕事です。見積もりはその一部に過ぎません」 愚かな思いつきばかり口走るマネージャーだが、バカではない。リジェクトされるのが分かっている非現実的なコストを見積もる作業はナンセンスであることを懇々と言って聞かせると、ようやく納得してもらえた。彼の言い分では、経営会議での参考になるからというが、選ばれない方に注ぐ
女のお尻のすばらしさについては、室生犀星が力説している。人間でも金魚でも果物でも、円いところが一等美しいのだという。人間でいちばん円いところは、お尻になる。故に、お尻が最も尊くて美しい場所なのだ。どうせ死ぬなら、お尻の上で首をくくりたいという。同感だ。 しかし、『お尻の文化誌』によると、女のお尻というものは、様々な視線を浴び、いろいろな道具に覆われ、拘束されてきた。女のお尻というものは、そのままの状態であったことは少なく、絶えず評価され、比べられ、鍛えられ、覆われ、曝されてきたというのだ。 「女のお尻」を歴史から語ったものが、本書になる。お尻そのものに焦点を当てたのはジャン ゴルダン『お尻とその穴の文化史』だが、本書はお尻そのものに加えて、「そのお尻を見てきた視線」に焦点を当てている(←ここが面白いところ)。 女のお尻は誰が見てきたのか? 「お尻」の部分は、そのままでは自分で見ることができ
FANZAに日参してるから、よく知っていると思っていた。だが、大まちがいだった。いかに自分は分かっていないか、エロがどれほど広くて深くて激しいかを思い知らされた。 『アダルトメディア年鑑2024』は、「エロ」と呼ばれる性メディアの現在を可能な限り網羅的に切り取ったものだ。マンガ、ゲーム、アニメ、実写動画、小説、音声といった媒体からの紹介や、商業・同人、合法・地下、生身・CG・生成AIといった切り口で、エロの今が詰め込まれている。 私が知ってるのなんて、マンガとゲームの中の、ほんのちょっぴりの欠片でしかなく、それでもって現代エロを語ろうとしていたのには恥ずかしくなる。 とはいえ、私だけに限ったことではないようだ。執筆者たちの座談会で分かったのだが、みんな自分の沼しか知らない。エロが好きだからといって、全ての沼に浸っているわけではなく、好きな所しか知らない。エロとはそういう、個人的で密やかなも
「ナチスがしたことは悪行だけではない。良いこともした」という言説を見かける。悪の代名詞とも言われるナチスだが、評価できる部分があるという主張だ。 例えば、公共事業を拡大して失業者を減らすことで経済復興を果たしたり、充実した家族政策により出生数を向上させた。もちろんそれでナチスの蛮行が減殺されることはありえないが、これらは「良いこと」と言えるのではないか、という意見だ。 『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』は、こうした見方に異議を唱える。ナチスがした「良いこと」とされる政策の一つ一つを取り上げ、その背景や目的を精査し、ナチスのオリジナルなものだったか、さらに成果を生んだものかを考察する。 結論を一言で述べると、著者のこのツイートになる。著者は歴史学者であり、ドイツ現代史を専門としているプロフェッショナルである。 30年くらいナチスを研究してるけどナチスの政策で肯定できるとこないっすよ。
これは友人の話なのだが、「やれたかも」という夜は確かにあるそうだ。 「飲み会で意気投合した女の子と帰りの電車がたまたま一緒で、飲みなおそうという流れからカラオケへ」とか、「夏合宿の雑魚寝が寝苦しくて抜け出したら、後輩の子がついてきた」とか。 だが、イイ感じなのはそこまでで、「朝まで歌っただけ」とか、「ちょっと雑談してから部屋に戻って寝た」とか、他愛のないものに収束する。 まんざらでもない態度や視線に、選択を間違えなければチャンスをモノにできるはず……だが悲しいかな、ヘタレ童貞は何をどうすれば良いかわからない。ギャルゲ―なら2つか3つの「選択肢」だけだが、リアルは無限だ。深夜、女の子と二人っきりというシチュに、胸の鼓動がドキドキ目先はクラクラ、何も思い浮かばない。 かくして何も無いままとなる。その後の進展もなく(むしろ素っ気なくなる)、「やれたかも」は、「かも」のまま、思い出となる……と、そ
精神的ダメージがありすぎて、読んだことを後悔する小説のことを、劇薬小説という。生涯消えないほど深く心を傷つけるマンガのことを、トラウマンガと呼ぶ。 劇薬小説とトラウマンガは、このブログで追いかけているテーマだ。 最近なら、 [BRUTUSのホラーガイド444] あたりが参考になるだろうし、最高傑作は、 [ス ゴ本の本] の別冊付録で紹介している。許容範囲オーバーの激辛料理を食べると、自分の胃の形が分かるように、琴線を焼き切る作品を読むと、自分の心の形が分かるはず(痛みを感じたところが、あなたの心の在処だ)。 『後味が悪すぎる49本の映画』 は、この映画版だ。観ている人の気分をザワつかせ、逃げ道を一つ一つ塞ぎ、果てしない絶望に突き落とし、胸糞の悪さを煮詰める―――そんな作品が紹介されている(49は主に紹介される作品であり関連する他の胸糞も合わせると100を超える)。 ハッピーエンド糞くらえと
都合が悪いのは現実だけで沢山だ。 せめて物語のなかだけは、予定調和に進んでほしい。ご都合主義と言われてもいい、悪いものが潰えて、弱き人、良き人が救われる、そんなストーリーになってほしい。 なぜなら、現実がそれだけで酷い世界だから。頭の弱い女は利用され、貧乏老人は虐げられ、居所のない子どもたちは食いものにされる。ポリティカル・インコレクトネスな世間だからこそ、物語だけでも救われてほしい。 そんな現実逃避を踏みにじってくるのが、ホラー短編集『寝煙草の危険』だ。 頭のイカレた老人が、通りでいきなり排便する(しかも下痢気味)。通り一帯に悪臭がたちこめ、近所の人が袋叩きにするのだが、どちらも救われない。ホームレスの老人も、正義感に満ちたその人も、その通りに住む全ての人が、救われない。 一応、老人の呪いという体(てい)で話は進むのだが、それを目撃した人たちは次々と不幸に遭う。強盗に遭って破産する、飼い
有名だけど退屈な小説の代表格は、『一九八四年』だ。全体主義による監視社会を描いたディストピア小説として有名なやつ。 2017年、ドナルド・トランプが大統領に就任した際にベストセラーになったので、ご存知の方も多いだろう。「党」が全てを独裁し、嘘と憎しみとプロパガンダをふりまく国家が、現実と異なる発表を 「もう一つの事実(alternative facts)」 と強弁した大統領側近と重なったからかもしれぬ。 『一九八四年』は、学生の頃にハヤカワ文庫で読んだことがある。「ディストピア小説の傑作」という文句に惹かれたのだが、面白いという印象はなかった。 主人公のウィンストンは優柔不断で、あれこれグルグル考えているだけで、自ら行動を起こすというよりも、周囲の状況に流され、成り行きで選んでゆく。高尚な信念というより下半身の欲求に従っているように見える。 「党」を体現する人物との対話も、やたら小難しく何
ネットで肝試しするなら「蓮コラ」画像が手軽だ。ちょっと検索するだけで簡単にゾワゾワできる。「集合体恐怖症(トライフォビア Trypophobia)」で検索するのもあり。生理的にダメな、見てはいけないものを見ている感覚を味わえる。 あるいは、youtubeで「フライングスーツ flyingsuits」を検索してもいい。ムササビみたいな恰好をして滑空する映像を「一人称で」見ることができる。スカイダイビングとは異なり、切り立った崖から飛び降りるのがスタートだ。だから映像は、飛び降り自殺する人が見ている(見ていた)視点と重なる。 Wingsuit Flight - straight & steep line より 高所恐怖症なら、「Raw Run」で検索しよう。スケボーで長い坂道を延々と滑り降りる映像なのだが、背筋ゾゾゾとなるのを請け合う。乗ってる人はほぼ丸腰で、ヘルメットもしていないのもある。公
40~60代のおっさん達に、「もし若い頃の自分にアドバイスができるなら、何を伝える?」と聞きまくって集めた名言集。 聞いた場所も、東京なら赤羽・上野、大阪なら新世界、名古屋なら栄の飲み屋街に限定してる。出てきた答えは、下品で下世話で下半身ネタだらけだけれど、心底その通り!と言いたくなる名言ばかり。 誰も教えてくれなかったけれど、長いこと生きてきて、ようやく身に沁みて分かった、何気ない一言が集められている。職場呑みの宴席とか、独りで入った飲み屋のカウンターで、こっそり教わる人生の教訓だ。 わかる人には痛いほどわかるやつで、分からない人は、きっと、幸せな人生だと言えるだろう。 人は、傷ついた分だけ、性格が悪くなる ラブソングとかで、「傷ついた分だけ、人は優しくなれる」というフレーズがある。手垢にまみれまくっているが、これはウソ。 あんなの心地いいだけで、タワゴトです。真実は真逆で、傷ついた分だ
人はミスをする。これは当たり前のことだ。 だからミスしないように準備をするし、仮にミスしたとしても、トラブルにならないように防護策を立てておく。人命に関わるような重大なトラブルになるのであれば、対策は何重にもなるだろう。 個人的なミスが、ただ一つの「原因→結果」として重大な事故に直結したなら分かりやすいが、現実としてありえない。ミスを事故に至らしめた連鎖や、それを生み出した背景を無視して、「個人」を糾弾することは公正なのか? 例えば、米国における医療ミスによる死亡者数は、年間40万人以上と推計されている(※1)。イギリスでは年間3万4千人もの患者がヒューマンエラーによって死亡している(※2)。 回避できたにもかかわらず死亡させた原因として、誤診や投薬ミス、手術中の外傷、手術部位の取り違え、輸血ミス、術後合併症など多岐にわたる。数字だけで見るならば、米国の三大死因は、「心疾患」「がん」そして
よく「美とは観る者の目に宿る」と言われるし、均整の取れた肉体を美しいと感じる。どちらが「美」かを選ぶことは難しい。 強いて言うならば「B」だろうか。 絵画や音楽、文芸や舞踊などの芸術作品で、「これは美しい」と評価されるものは、独創的で唯一無二であることが重要な要素であるように思える。もちろんそこに、伝統的な「型」があるかもしれないが、それを踏まえたうえであえて破ったものが「美」とされているのではないだろうか。 『近代美学入門』(井奥陽子、ちくま新書)によると、AとB、どちらも正解になる。 「美しい」とは何か?この疑問について、「芸術」「美」「崇高」「ピクチャレスク」という概念からアプローチしたのが本書だ。 これらの概念がいつ・どのように成立し、時代の中でどうやって変遷していったかをたどることで、わたしが抱えていた「常識」が常識ではないことに気づかせてくれる、優れた解説書であり啓蒙書でもある
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