バンドで全国を飛び回る僕に、息継ぎをさせてくれる街・西東京市|文・金井政人(BIGMAMA)

書いた人:金井政人(BIGMAMA)

ロックバンド「BIGMAMA」のボーカル・ギターと作詞・作曲を担当。Timelesz(Sexy Zone)やLiSA、手越祐也、池田エライザなど他アーティストの作詞作曲も行うほか、絵本や詩集を多数上梓するなど、作家としても活躍している。


西なのか、東なのか 「西東京市」誕生の日の祖父との記憶


東京都のちょうど真ん中から少し上、北の方。平成13年、田無市と保谷市が合併して‟西東京市”が誕生しました。

当時中学3年生だった僕は、高校受験の入学志願書の住所の欄に、まったく書き慣れない「東京都西東京市」と記入しながら、(結局、ここは京に対して、東なのか、西なのか東なのか、どっちなんだ!)と、心の中でツッコミを入れたのを覚えています。

祖父の部屋の机のメモ帳には、大きな字で「西東京市」と記され赤い丸がつけられていました。この合併と新たな市の名称は、市民の投票で決まったのですが、祖父はどうやら「西東京市」の誕生を望み、一票投じていたようです。自分の思うようにことが進んだ、もしくは自分のセンスが多数派であることに手応えを感じていたのか、普段あまり表情に出すことのない祖父はご満悦。小刻みに頷き、にんまりとしていました。

僕は正直なところ他の候補にあった「ひばり市」がいいな、と子どもながらに思っていた。ほら、どことなくビバリーヒルズ感があるじゃないですか。

事業の成功と失敗を繰り返す波乱万丈の人生のほとんどを、西東京に生きた祖父でした。その反動なのか手堅く謙虚な父、そしてまた音楽家なんて志して波乱万丈な道を選ぶ息子(イマココ)、隔世遺伝という言葉に人一倍説得力を感じています。

時折「ミュージシャンなんて、そんなギャンブルめいた商売するもんじゃないよ」という祖父の言葉がふと耳元で蘇ることがあります。

「あなたの血が流れているからだよ」なんて、ボソッとでも本人に言い返したりしませんでしたけど。似たもの同士引き寄せあったのか、祖父と最期の言葉を交わし、その死に際を看取ったのは僕でした。

東京でありながら、流れが緩む息継ぎの街


僕は西東京市で育ち、幼少期、思春期、青春期を過ごしました。もっぱら人生の、人格のフレーム作りを西東京で過ごした民です。

この街にある西武新宿線田無駅も、西武池袋線ひばりヶ丘駅も、どちらも急行電車・快速電車がそれぞれ各駅停車に切り替わる駅です。つまり「ここから先は、ちょっとペースを落としてのんびり歩こうよ」みたいな、なんとなくな境界線が敷かれていて、適度に都会、適度に田舎。時間の進み方が、ほんの少しだけ緩む印象があります。ほっと一息、息継ぎをするような場所なのかも知れません。

また東京といえば‟03”の市外局番のイメージがあるかもしれませんが、あれって実は23区内だけであって、ちなみに西東京市は‟042”だったりします。

西東京市の東側、練馬区との境目付近には、魔法のバリアのように‟03”の見えない壁が存在して……西東京側からすると、23区側に踏み入るのにはなんとも畏れ多いような雰囲気すらあります。冗談ですけど。

田無神社のわんぱく相撲大会で勝ち抜き、両国国技館の土俵へ

近所の幼稚園、小学校、中学校に進学し、とりわけ盛り上がるエピソードもないまま、大体は学校か、近くのグラウンドでスポーツをして過ごしていました。

平日はサッカー、土日は野球。向台運動場、市民公園グラウンド、北原運動場を梯子しながら、大小の球を投げたり打ったり拾ったり蹴飛ばしたり、球体を追いかけて走り回るばかりの毎日。多分前世は牧羊犬か何かだったんだと思います。

大人になった今でも、ランニングがてらグラウンドの近くを通ることがあるのですが、いつからか小学校の校庭に芝が張り巡らされていたり、グラウンドや公園がきれいに整備されていくのを横目に、時の流れ、自治体、人や企業の努力を常に感じます。

そういえば、勢い余って田無神社で行われていた地域の相撲大会「わんぱく相撲」に出場し、何を間違ったのか優勝してしまったことがあります。優勝者は漏れなく両国国技館で行われる東京都大会行きの切符を手にしてしまうのですが、こちらはあっさり本格派の同級生につまみ出されるようにして2回戦負け。

日本で数少ない、というか、もしかしたら僕だけかもしれません。両国国技館で廻しを締めて相撲をとったことのあるミュージシャンです。

自転車で行ければそこは地元、小金井市はもちろん、武蔵野市吉祥寺まではアクセス可能

高校は、「近いから」というマンガみたいな理由で、自転車で通える小金井市の学校を選びました。『SLAM DUNK』を読み過ぎたのかもしれません。中学まではほぼ西東京市から出なかった僕ですが、自転車通学を存分に謳歌し、行動範囲は広がっていきました。

西東京市を端から端まで縦横無尽に、時にはそれをはみ出していきます。高校のあった小金井市はもちろん、武蔵野市、吉祥寺までは「地元」と言い張っていました。自���車で40〜50分かかるのに、ふてぶてしいですね。

豊かな緑がある小金井公園もすぐ近く


西東京市の南西側にある、小金井公園を横切るルートが僕の通学路でした。大人になって古今東西、桜の名所を見てその度に感動し、日本に生まれて良かったな、なんて思うのですが、どうやら僕は他の人よりもリアクションが薄いみたいです。

それはきっと、小金井公園の桜が咲き乱れている景色を覚えているから。ちょっとやそっとの桜並木には感動できないくらい、贅沢になってしまったのだと思います。

その他にも、バスケットコート、サイクリングロード、あ、あそこの雑木林で、自転車で転んで骨を折ったこともあったっけ。これくらい広大な土地、大きな公園が子ども時代からずっと近くにあったことは、とても有り難かったと思います。

なんせ、想像次第で無限に広がるテーマパークですから。自由に自分たちで遊びを作る、ということが日常でしたし、0から1を作り上げていく、今の仕事のクリエイティブに繋がってるのかもしれません。こじつけですが。


好きな食べ物「カタツムリ」の小学生

小金井市エリアの思い出をもう少し語ると、近くの五日市街道沿いに「リストランテ・ウノ」というイタリアンレストランがありました。父の気分次第なのか、母が食事を用意するのが面倒な日なのか、不定期に家族で訪れていました。

忘れられない味、なんてものは人生でそう多くはないのですが、そこで食べた牛肉のカルパッチョは、パルメザンチーズの贅沢使いから、ケッパーのアクセントのつけ方まで、子どもながらに「ちょっとシェフを呼んでもらえますか?」と言ってみたくなるほどでした。料理ってすごいな、と感動したこの店の味は、閉店した今でも舌が覚えています。

また、小学生ながらに、エスカルゴの美味しさに気づいてしまい、サイドメニューのガーリックトーストを、さらにエスカルゴソースにディップして食べるという、罪深い幼少期を送っていました。好きな食べ物、カタツムリ。相当ませた子どもだったと思います。

この街を駆け抜けた自転車(のステッカー)から名付けられた「BIGMAMA」

高校入学と同時に、あれだけ熱中していたスポーツをあっさりと辞めました。怪我をしてしまったこと、部員を坊主にすることに対する疑問、ユニフォームがあまり好みでなかったことなどが重なったからです。

約1年間、特に目的もなくフラフラしていたのですが、学園祭で見た先輩のライブに感化され、気づいたら今度はボールでなく、楽器を手にしていました。好きになった曲の歌詞を、教科書の端やノートに、机に、意味もなく書き込んで、放課後の教室で、時には吉祥寺にある音楽スタジオまで自転車を走らせて、仲間たちとセッションをする、その空間に自分の居場所のようなものを見つけた感覚がありました。

そして、時は高校2年生、学園祭でバンドを組むことになりました。「そのバンド名を決めようぜ!」もはや素人も素人、毛の生える前の集団ですから、カッコ良すぎる名前は当然NGです。かと言ってダサすぎる名前はちょっと……みたいな謎のプライドもあります。面倒くさ。

そのうちのひとりが、駐輪場で言いました。「金井の自転車に貼ってあるステッカーの名前で良いんじゃない?」今も尚、現役でやらせてもらっています、バイオリニストのいる5人組のロックバンド、「BIGMAMA」はこうして誕生しました。

そのままエスカレーター式に進学。高校と違い、キャンパスは八王子にあったので、大学生になっても片道2時間をかけて、自宅から大学へ通っていました。バスや電車を乗り継いで往復4時間、週5で20時間電車に乗っている計算です。

流石に遠いので、大学の近くで一人暮らしをするか、母親と討論した記憶がありますが、結局親の説得に根負けし、家から通うことに。結果論ですが、その時素直に親の言うことを聞いていて良かったなと思います。安心して暮らせる地元にいたからこそ学業と音楽を両立させることが出来たのだと思いますし、どこの家にも、きっと似たような話、ありますよね。

僕をプロのミュージシャンにしてくれたバイト先「TSUTAYA 境橋店」

この頃からバンドに少しずつお客さんがつくようになっていました。それでも楽器、スタジオ、移動、バンド活動にはお金がかかって仕方ないのです。

当時は家庭教師のバイトと並行しながら「せめて少しでも音楽に触れられる場所で働こう」と思い、今は無き、「TSUTAYA 境橋店」の面接を受けて、即採用。その日から働くことになりました。

何万本もの映画のパッケージや、CDジャケットに囲まれて過ごす日々、作品のタイトルや邦題の振り方、そして帯のキャッチコピー。たった一行、たった一言でどうしたら人を振り向かせることができるのか、今の仕事に通ずる部分に考えを巡らせながら、休憩時間には片っ端から、流行りものから名作と呼ばれるものまで、時間の許す限り作品をチェックしていました。

沢山のアイデア、センスに触れた、この時の記憶は今でも他の何にも変え難い財産として、自分の引き出しに入れてあります。

大学の授業を受けながら、バンド活動に勤しみ、いくつものバイトを掛け持ちする。人生で最も、寝る間を惜しんで動いていた時期だったと思います。苦労を苦労だと思う暇もないような、この期間があったから、今の自分があるのだとも思います。

結果、あれよあれよという間に全国デビュー。そして、バイト先のTSUTAYAにも、ついに自分のCDが入荷されました。

とても嬉しかったのですが、それと同時に、自分のCDを店員としてレジで受け取った瞬間、「あ、ここにいてはいけない」なんて思って、辞めることを決意したのを覚えています。

日本各地を飛び回っても、心が帰る場所は西東京市


その後、音楽活動が本格化し、活動の拠点を増やしながら、全国各地色んな場所を飛び回るようになりました。

今も行脚し続けているわけなのですが、自分にとっての巣、帰巣本能でいう「帰ってくる場所」はきっと、西東京市なのだと思います。また音楽家として、ロックバンドとして、唯一無二を極めることこそが熱狂を生む秘訣なのだと、「ラーメン二郎 ひばりヶ丘店」の行列に並びながら学ぶのです。

幼少期、学生生活、仕事、あらゆる場面において、この街が自分にとって、当たり前で、平凡さが愛おしくすらある、とても心地の良い場所であった、ということが伝われば本望です。

もしももう一度生まれ変わったり、人生好きなところからやり直してもいいよ、なんて、どこでもドアや、タイムマシンのスイッチを渡されても、僕は選べるならば、同じ両親の元に生まれたいですし、西東京市で育ちたいですし、BIGMAMAというステッカーの貼ってある自転車を乗り回して、ひばりヶ丘駅や田無駅から電車に乗って学校に通うのだと思います。

著: 金井政人(BIGMAMA)

編集:小沢あや(ピース株式会社)