関心領域 - レビュー

遠くから壁と建物に阻まれくぐもった銃声と叫びが聴こえる

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気難しい顔つきの女が卓上の三面鏡を前に口紅を塗り始める。窓は曇り空を映し、淡く白い光を部屋に差し入れる。遠くから銃声が響く。薄い光に照らされた部屋は塵ひとつなく整理されている。口紅が下唇をなぞる。外から誰かの叫び声がくぐもって聴こえてくる。家の他の部屋から赤ん坊の泣き声が上がる。痛ましい声という声は鮮やかな泣き声の中へ溶けて消えてゆく。

女は依然として口紅を塗る。突如として僕は子供の頃を思い出した。銃声が続く。僕が昔、出来上がったばかりの新興住宅街に住んでいた頃だ。2、3軒ほど隣の家から怒号が響いた。子供の虐待らしい。怒号は毎晩のように響いた。その家とは誰も関わり合いを持たなかった。怒号はやがて近くの川に住むガマガエルの鳴き声と混ざり日常の音となり、僕は家族と休みに行くキャンプの話をした。

口紅を塗る女の名前はヘートヴィヒ・ヘス。主人のルドルフ・ヘスのおかげで夢にまでみた豊かな生活を手にしていた。ルドルフはナチス親衛隊の中佐として、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所の所長を務めている。その立場から家族に豊かな生活を与えていた。ただし、家族が暮らす家は強制収容所のすぐ隣だ。人間が殺される音が常に聴こえる。

強制収容所と絶滅収容所、収容者の作業場、そしてヘスたちの家を含む場所はドイツ語で“Interessengebiet”――日本語で“関心領域”と名付けられていた。

凄惨な虐殺が起きた場所があまりに寓意的な名前を持っていたからだろうか。第二次世界大戦が終結しておよそ70年後、小説家のマーティン・エイミスがその場所の名前を冠した小説を2014年に執筆。9年後の2023年、ジョナサン・グレイザーがエイミスの小説を原作として映画を撮影。それが今回評する『関心領域』である。

ナチス・ドイツによるホロコースト。この虐殺を扱う書物も映画も膨大な数がある。にもかかわらず、あの虐殺を心のどこかで「あの時代のドイツだったから起きた異様な出来事だったのではないか」と考えてしまうところがある。

『関心領域』の恐ろしさは、観客が「虐殺はあの時代と環境ゆえに起きた」と無意識に考える逃げ道を巧みに塞いでいることにある。コンセプトから撮影手法、音響の演出に至るまで過去の同テーマの映画と一線を画すことで、1940年代のドイツで起きた虐殺を2024年の日本に住む人間にも今日のことだと痛感させるのだ。

現実的であり寓意的 撮影手法が表現するもの

グレイザー監督のインタビューでは、まるでリアリティショーみたいにヘス一家を撮るために家の中や庭に、隠しカメラとマイクを配置する手法で撮影したことを明かしている。「スタッフが家の中に立ち入らないことで、俳優たちのリアリティを作ろうとしました」とのことらしい。

この言葉だけ聞くと、日本のバラエティ番組によくある隠し撮りカメラの粗い映像で俳優の自然な姿を撮るイメージが湧くが、実際の映画はそうではない。基本的にすべての画面の構図が作りこまれている。俳優たちの演技も構図に当てはまるように動いている。

代表的なのは人物を中心に据えたシンメトリーに近い構図が多用されることだ。この構図は映画をスマートに見せるが作為的で現実感が薄い。リアリティショーが見せたい自然さと真逆だ。『グランド・ブダペスト・ホテル』のウェス・アンダーソン監督がシンメトリー構図を活用することで、人工的でシニカルさのある作品世界を構築したことを思い出すが、『関心領域』においてはその構図が、どこにでもあるような日常を非現実的に見せるために機能している。

©Two Wolves Films Limited, Extreme Emotions BIS Limited, Soft Money LLC and Channel Four Television Corporation 2023. All Rights Reserved.

一方で室内シーンを映画館の大画面で観ていると、なにか船酔いにも似た気持ち悪さを覚える。というのも、画面のフレームと部屋の壁や家具が平行になっていないからだ。

ふつうは平行になるように構図を作る。だが『関心領域』ではカメラの角度が水平からおそらく5~6度ほど傾いており、画面の座りが悪い。これは室内に設置した固定カメラや隠しカメラによるものなのだろうが、僕には何かが壊れた日常を表現しているように思えた。

かくして作為的な構図を目指した映像でありながら、何かがいびつなショットが重ねられてゆく。そのショットの背景で人間の叫び声や銃声、何かが燃やされる音が鳴る。この映像と音の演出が、本作を寓意的でありながら、現実的であるように見せる企みなのは間違いない。そしてそれは、虐殺が起きた場所が“関心領域”と現実に名付けられていた寓意性に繋がる。

『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』といった共著を執筆した社会学者の田野大輔は、TBSラジオ「荻上チキ・Session」に出演した際、本作についてこう指摘している。「ヘスの邸宅がアウシュビッツのすぐ脇にあるというのは歴史的な事実。ただ、収容所の壁がそのままヘス家の庭に面していたわけじゃなくて、もうひとつ建物があって、ヘス家の土地に入っていました。なので壁ひとつを隔ててヘス家と収容所が向かい合っていたという事実は、実はない」とのことだ。これを踏まえると、本作はヘス家の再現以上に、この環境が持つ寓意性をクローズアップする意図があったとわかる。

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不可視の虐殺 視覚を遮断する演出の意図

『関心領域』はこうした画面作りで違和感を見せるなか、ある表現によってさらに一歩踏み込んでみせる。それは映画にもかかわらず、スクリーンに何も映さない時間を幾度も繰り返すことだ。

冒頭で真っ暗なスクリーンのまま、音楽と環境音だけが聴こえる状態が数分ほど続く。映画中盤に差し掛かるころ、ルドルフが収容��内で勤務するアップショットから、悲鳴が聴こえる中でスクリーンが真っ白に染まる。中盤ではヘートヴィヒの育てた花のカットが重ねられ、赤い花から画面が真っ赤になり耳障りなノイズが鳴る。

本作は実質的に三幕構成を持つ。そこで次章に移り変わるタイミングで画面に一定時間、何も映らなくなる演出が入る。この演出は、ある現象を暗に伝えていると思う。それは虐殺を誰も具体的に認識できないのではないかということだ。

本作では収容所にいたユダヤ人が映されない。強制収容所から聴こえる音、ヘス家での会話のような間接的な情報でしか虐殺の存在を知覚できない。実体が不可視である。このリアリズムを徹底したことで、あまりに批判的な映画になった。

特に観客が虐殺に対してなんとか関心を持ちたい、助けたいと考えてしまうことに対しても嫌な批判性を見せる。ポーランド人の少女が真夜中、強制収容所のそばへ忍び込み、スコップが刺さった地面の陰にリンゴを埋めていくシーンがそうだ。

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普通なら、苦しむユダヤ人たちを救おうとする少女のシーンはポジティブな感情を喚起するはずだ。ところが本作ではその様子をサーモグラフィカメラで撮り、冷たく不気味なシーンに変えてしまう。ヘス家が『ヘンゼルとグレーテル』を朗読する声の裏で、少女は強制収容所の地面にリンゴを埋める。だが、彼女が収容所の人間に出会うようなシーンはない。

少女のエピソードは実話だという。ポーランド人のアレクサンドラ・ビストロン・コロジエイジチェックが、父親が強制収容所に投獄されたとき、中の囚人と連絡を取り、隠れて物資を届けた経験を採用したらしい。しかし映画本編を見る限り、画面の中の少女は間接的にしか収容所の人間について知らないように映る。

少女のシーンは、見方によってはあらゆる虐殺に関心を持ち、莫大な情報に触れていったとしても結局は正確に認識しきれないことを示すかのようだった。それは現在、インターネットからSNSによって情報をとめどなく仕入れることができ、その間接的な情報からあらゆる物事を認識した気になってしまう環境に対しても批判性があるようにも感じられた。

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虐殺を不可視にする、社会の働きと個人の心の動き

1940年代のホロコーストを2024年の日本からも今日的なものと感じられる理由はそこだ。虐殺も災害も当事者以外には実質的に不可視で、情報としてしか近づけない。残された情報から想像するほかないが、どこまでも実体が見えないことに変わりはない。

真夜中、強制収容所の焼却施設の煙突から禍々しい火が上がるシーンがある。へートヴィヒが家に呼び寄せた母が窓越しに目撃する。彼女はそこで初めて人間が処刑される現実を認識する。僕は妹が神奈川県の介護福祉施設にて働いていた頃の話も思い出した。2016年のことである。この年に同県の相模原市にある、障害者施設の津久井やまゆり園にて凄惨な事件が起きる。事件の第一報を聞いた瞬間は、まだ詳しい状況がわからなかったのもあって、無差別殺人と思いすぐに妹が無事か連絡した。

やまゆり園と妹の距離は離れていたし、事件が明らかになるにつれて、妹が手にかかる可能性が低かったことがわかった。だが、本当にぞっとするのはそのあとだった。犯人の植松聖の極めて差別的な動機が明らかになったときと、妹にこの事件のことを聞いたときだった。

「ただ、あの事件はありえるとは思った」妹から話を聞いていて耳を疑う言葉があった。なんでも福祉の現場では、いつも同じ職場で同じ職員や同じ入居者と関わるうちに考えが凝り固まり、極端な考えに捉われる瞬間がないわけではないという。

だからこそなんらかの職場の見直しがあるのではないか、と僕は妹に聞いた。介護福祉と障害者福祉の現場が部分的に近似していると僕は感じたからだ。しかし、妹の現場では特別な見直しもなかったという。事件については同僚と話すまでに終わった。もちろん現場の見直しがあったところもあるだろうが、少なくとも妹の話ではそうだ。妹も事件を積極的に調べようとしなかった。「ありえるとは思った」からこそ、あの事件を他人事ではないと向き合うかたちにならず、むしろ意識して情報を遮断していた。その話がやけに自分の記憶に刻まれていた。

やまゆり園で起きた事件は妹の仕事を通して、僕にとって事件を想像するきっかけにはなった。だが依然としてあの事件の実体は不可視のままである。

虐殺はどこまで我々と地続きの現実なのか。ルドルフがナチスからアウシュビッツからの転勤を提案されたことをへートヴィヒに話すと、彼女は激怒する。転勤とはすなわちへートヴィヒが手にした生活が無くなることを意味する。彼女が思いつめた表情で歩いていく姿は本作でもっとも醜い。

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その歩みは、豊かな生活を手放さないために、間接的に虐殺へ加担することを辞める気はないという醜さを表している。それはイスラエルによるパレスチナでの虐殺に向き合わない世界に対してクリティカルなシーンでもあるが、日本の、そして個人の視点からしても重なるものがある。それは僕と妹にとってのやまゆり園の事件や、僕が子供の頃に見過ごした隣家の虐待の怒号を思い起こさせるのだ。

虐殺の声が壁や建物に阻まれ、くぐもって聴こえてくる『関心領域』の演出は、多くのレビューにあるような「耳で想像させる、耳で見る映画」ということではない。むしろ何も見えない、何も完全に想像できないという現実を突きつけるものだ。『関心領域』で映される日常風景と殺戮の声のミスマッチは、社会や個人といったさまざまなレベルで、ある虐殺が不可視なものとされていく力を端的に見せている。

だが虐殺を不可視にしてきたことには、いずれ帳尻が合わされる。エンディングで身の毛がよだつ音が鳴る。ここまでに具体的な劇伴がなかったことがスタッフロールの裏で流れる音楽を不気味に生かす。最後の音楽はまるで見過ごされた死者の腐臭や叫びが幻聴となって耳の中から入り込んでくるかのようだ。かつてホロコーストを世界は見過ごした。やまゆり園の事件を見過ごした。そして僕は隣の家の虐待を見過ごした。音楽には誰かの叫び声があった。それはくぐもって聴こえてきた。

総評

『関心領域』が虐殺の光景を徹底して描かないことは、おそらく虐殺の状況を本当には認識できない現実を映画の形で指摘している。虐殺を間接的な情報としてしか認識できない現実の残酷さをあますことなく描くことで、不気味なかたちでホロコーストを今日的な問題として考えさせるものになった。

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関心領域

Film4 | 2024年5月24日

映画『関心領域』レビュー 自分もまたやまゆり園の事件、そして隣家の虐待のすべてが見えていなかった

10
Masterpiece
『関心領域』は、虐殺を間接的な情報としてしか認識できない現実の残酷さをあますことなく描くことで、ホロコーストを今日的な問題として考えさせる作品になった。
関心領域