ジョセフ・ヒース「民主主義における政党の役割:ロブ・フォードについての考察その3」(2014年5月3日)

このエントリで言いたいのは、州や連邦レベルの政党をすぐに貶すべきではないということである。政党が果たしている多くの有益な機能は見落とされがちなのだ。

トロント市長ロブ・フォードが、選挙キャンペーン(と自身の仕事)を一旦やめてリハビリに専念することに決めた [1] … Continue reading 。トロント市民の多くは、このニュースを聞いて間違いなく安堵したことだろう。現実の問題について議論できるようになるかもしれないと考えると、ほとんど胸が躍るような気持ちになる(また私としては、オリヴィア・チャウ [2]訳注:トロント市長選での左派の候補者。ヒースは、再分配に傾倒しすぎているとしてチャウに批判的な態度をとっている。このエントリを参照。 に投票しなければならない義務感を抱かずに済むという開放感もある)。

本題に入る前に、フォードに少しだけだがお別れの言葉を述べておきたい。みんなと同じく、そうする誘惑に抗しきれないからだ(これは本当のお別れではない。フォードはまず間違いなく30日以内に戻ってくるだろう。「願わくばお別れにしたい」というのが正確かもしれない [3]訳注:実際にはフォードが再び市長選に立候補することはなく、2014年以降はトロント市議会議員として活動し、2016年に死去した。 )。

多くのトロント市民はここ数年、頭を左右に振って、「こんな報いを受けるようなことを私たちはしただろうか?」と自問自答してきた。そして、フォードが一貫して高い支持率なのを見て、(私の妻の言葉を借りるなら)「いったいトロント市民はどうしちまったんだ?」と不思議に思ってきた。

そこで、そうした人たちへの慰めとして、フォード、そしてトロントの有権者はなんら特別ではない、ということを指摘したい。フォードは、文字通り古来から存在する人物類型(アーキタイプ)の、最新の例に過ぎない。フォードは、プラ���ンやアリストテレスの読者ならお馴染みの、デマゴーグの教科書的な事例だ。民主的政治システムの誕生以来、幾度も現れてきた人物類型の、ほとんど型通りのバージョンである。

こうして見れば、トロント市民は、自分たちだけが特別な罰を受けているわけではないと分かって安心できるだろう。トロント市民を悩ませてきたのは、民主的政治システムの持つ内在的な弱点の1つなのだ(この弱点こそが究極的には民主制を崩壊させる、とプラトンやアリストテレスは考えていた)。

幸いなことに、私たちはこの欠陥をコントロールする方法を既に見つけている。現代の民主政治が古代よりはるかに安定しているのはこのためだ。この点については後述しよう。

フォードはなんら特別でもなければ、前例がないわけでもないことを確認するために、ジェームズ・フェニモア・クーパー(James Fenimore Cooper)の論稿から、1838年当時の「デマゴーグ」の描かれ方を取り上げてみよう。クーパーによると、デマゴーグの特徴は次の4つだ。

(1)自分はエリートではなく庶民であるという風にふるまう。

(2)通常のレベルの政治的支持をはるかに超えた、一般市民との強力で本能的な繋がりを政治的基盤にしている。

(3)一般市民との本能的繋がりと、それがもたらす人気の盛り上がりを、自身の利益と野心のために巧みに利用する。

(4)確立した行動ルールや制度、そして法律すらも、脅かしたり、あからさまに破ったりする。

マイケル・シンガー(Michael Singer)は最近の著書『デマゴーグ:民主主義を最悪の敵から救う戦い』“Demagogue: The Fight to Save Democracy from its Worst Enemies”〔未邦訳〕(クーパーの見解の要約は、この本のp. 35から引用した)で、最後の(4)が最も重要であり、デマゴーグと単なるポピュリストを分かつ点だと論じている。ポピュリストはルールに従って行動するが、デマゴーグは「法の支配を押しのける」。

クーパーがこの文章を書いたのは約2世紀前だが、ロブ・フォードの描写のように読めると思っているのは私だけではないだろう。フォードは非常に根強く現れ続けている人物類型の繰り返しに過ぎないと私が述べているのは、こういうことである。

しかし、デマゴーグがこれほどしつこく現れ続けている���介者なら、ロブ・フォードのような人物はなぜもっとたくさんいないのだろう、と思う人もいるかもしれない。フォードみたいな人物があちこちに現れていないのはなぜだろうか?

答えはこうだ。私たちは大衆民主主義を制限する制度を作り出すことで、その最も明白な欠陥のいくつかを抑制してきた。これは〔デマゴーグだけでなく〕他の多くの領域にも言える。例えば、連邦制(〔国全体で見れば〕マイノリティである集団が、〔州レベルで〕マジョリティになるような政治的秩序の創出)や、立憲的権利と立法府に対する司法審査の組合せといった制度によって、マジョリティがマイノリティを抑圧する能力を制限している。

デマゴーグを完全に排除するのは不可能だが、デマゴーグを最も効果的に抑制する制度は、民主主義に関する文献では不十分にしか理論化されていない。それは政党である。政党が選挙で擁立する候補は、国民からランダムに選ばれているのではないと認識するのが重要だ。候補者は、明示的そして暗黙に、事前にスクリーニングされている。党首は特にそうだ。党首選で選挙キャンペーンを行い、支持を得るため他の政治家を説得しなければならないというだけでも、極めてハードルが高い。

そのため、政党が擁立する候補者は、普通の市民とあまり共通点を持たない。こうした候補者は、ジェパディ〔アメリカのクイズ番組〕の出場者のようなものだ。つまり、舞台裏で進行する長い事前のスクリーニング・プロセスを経て選ばれているのである。私たちはこれを当然だと思い込んでいる。そのため有権者の多くは、無責任な投票を行うのが習い性となっている。有権者は候補者名簿を見て、主要な候補者はみな多かれ少なかれ仕事をこなせるだろうと想定し、相違点は些末な政治的イデオロギーの差異だけだと考えるのである。

主要な候補者の中に完全なポンコツがいるかもしれないというのは、ほとんどの人にとって想定の埒外にある。なぜそうなってしまうのだろうか? 理由はこうだ。国政政党や州政党の党首について何を思うにせよ、なんだかんだいって彼ら彼女らはみな、多かれ少なかれ有能な人物なのである。様々な能力を持っており、政治の世界を選ばなかったとしても、他の領域で必ずや成功したことだろう。

さて、私の仮説は次のようなものだ(ブログの1エントリが仮説を持つと言えるならば、だが)。ロブ・フォードが市長になれたのは、市政レベルで政党が存在しないからだ。フォードは、政党の党首選に出ていれば絶対に勝利できなかっただろうからである。例えば、(スティーブン・ハーパーのような)フォードとほぼ関わりのない保守党政治家は彼の出馬を支持したが、フォードと実際に一緒に働かざるをえなかったトロント市議会の保守派は誰一人、彼の出馬を支持しなかった、という事実は非常に重要だ。フォードは市議会議員に就任した初日から、他の誰とも全く協力できていなかったからである。フォードは、仲間の右翼議員を含むあらゆる人に人種差別的な発言を日常的に繰り返していたことを別にしても、アンガー・マネジメントに明らかな問題を抱えていた。彼がまだ市議会議員だった頃から、多くの人はこうした光景を目撃してきた。

〔リンク切れ動画〕

トロント市政に詳しくない人は気づかないが、最初に発言した、フォードにひどくいらついている人物はケース・オーテスで、右派議員の1人である(彼は最終的に、フォード更迭チームの議長となった)。市議会に政党が存在し、保守議員がフォードとオーテスのどちらかを党首に選ばなければならなくなったとしたら、こうした事態の後でどちらが選ばれるか想像するのは難しくない(フォードの右にいるのはジョージオ・マンモリチだ。フォードが彼を「ジーノ坊や」と呼んだことは有名である。つまり、フォードはこの場で、自身の仲間内の保守議員に囲まれているのだ [4]訳注:上の動画では恐らく、周囲の議員すらフォードに不快感を示している様子が映されていたのだと思われる。 )。

フォードの知的機能が非常に低いことにも多くの人が深刻な懸念を抱いている(これについては以前のエントリで論じた)。例えば、フォードは市議会議員だった頃、自身の所有するフットボール・チームが練習を行う午後の数時間、ピアソン国際空港の滑走路の1つを閉鎖しようとした、という逸話がある。フットボール選手たちはどうやら飛行機の騒音で気が散ってしまっているらしい、と考えたというのである。これは作り話かもしれないが、こんな話が市庁舎で語られているという事実は、人々がフォードの知的能力に懸念を持っていることを雄弁に物語っている。

それゆえ、フォードが市長の役割を果たせると考えていたのは、トロント市政に関心がない人だけだった。そしてもちろん、市政に関心がある人などほとんど存在しない。右翼の新聞コラムニストすら(最低品質のトロント・サン紙は例外として)、「おいおい、こんな奴を選ぶなんてありえないだろ!」といった調子だった。問題は、ノイズからシグナルを選り分ける方法がないことである。主要な候補者は政党による入念な吟味を経て出馬していることが多いから、コラムニストが「あいつには投票するな」と言っている場合、それはコラムニストの政治イデオロギーに基づく判断の反映に過ぎないことがほとんどだ。だから、公職に全くもって向かない、常軌を逸した候補者がいたとき、それを読者に伝えるのは難しい。ジャーナリストが「真面目な話、そいつに投票するなんて考えられない、論外だ」と言っていたら、人はそれを真実ではなく、単なる政治イデオロギーとしか見なさない(「トロント・スターはあいつをやっつけようと躍起になってるんだ」)。

政党に関するもう1つの重要な論点は、政党が守るべきブランドを持っていることだ。無能な党首は自分の評判を落とすだけでなく、政党のブランドも傷つける。無能な党首は、その党にいるあらゆる人間(再選したいと望んでいる者も多い)に被害を与えるのだ。そのため政党に所属する政治家は、党の足を引っ張る党首を引きずり下ろすインセンティブを持つ(引きずり下ろすタイミングを待ちすぎて、ダメージを受けざるをえなくなることもある。ブリティッシュ・コロンビア州で、ビル・ヴァンダー・ザルムが社会信用党にどんな結果をもたらしたか思い出そう。他方、連邦レベルの進歩保守党が、サスカチュワン州の進歩保守党を壊滅させた主犯であるグラント・ディヴァインと党を結びつけられるのを避けるために、どれほど努力してきたかを考えよう)。

言うまでもなく、ロブ・フォードが政党の党首だったら、彼は今頃引きずり下ろされていただろう。連邦政治や州政治のレベルで、スキャンダルまみれの指導者や無能な指導者を引きずり下ろすという汚れ仕事を、私たちは政党にほぼ任せきりにしている(例えば、一般市民に言われずとも、深刻なアルコール依存症の政治家を政党が粛々と効果的に処分した例はたくさんある)。だからフォードに関して、市長の座にある人間を引きずり下ろす実効的なメカニズムが存在しないと知り、多くの人が驚いたのである。実は、一国の首相の座にある人間を引きずり下ろす実効的なメカニズムも存在しない。だが、市政よりももっと上のレベルでは政党が存在するため、こうしたことが問題になっていないのである。

では、市政レベルでも政党が存在すべきということになるのだろうか? 個人的にはそこまで主張するつもりはないが、これはそれほど悪くない措置だと思う。〔だが〕このエントリのメインの論点(そう、このエントリには論点があるのだ!)は実は、市政とは全く関係がない。このエントリで言いたいのは、州や連邦レベルの政党をすぐに貶すべきではないということである。政党が果たしている多くの有益な機能は見落とされがちなのだ(保守派が好んで言うように、「なぜフェンスが建てられたのか分かるまで、決してフェンスを撤去してはならない」)。

例えば、次のような見解は非常によく見られるものだ(この手の議論を私は左翼の学生からいつも聞かされているが、エリザベス・メイ(Elizabeth May)は幾度となくこうした主張を繰り返している)。「政党は真の政治的熟議の障害となっている。政党がなくなれば(そして〔党議拘束されない〕自由投票が増えれば)、議会が党派的な事柄に関わることも減るし、議員たちは道理に適った妥協に向けて真剣に議論しあうようになるし、……(以下省略)」。

メイはこの手の議論をたくさん行っている。ここでは典型的なものを挙げておこう(この文章でメイは、政党の持つ権力には何かしら憲法に反する点があると仄めかしている)。

議会のメンバーが政党の党首に仕えなければならない、とは憲法には間違いなく書かれていない。……実は、憲法では政党に関して何の言及もない。憲法に書かれているのは、政治家は選挙区の有権者の代表であり、有権者に仕えているということだ。国会議員がもっと〔政党から〕自由になれば、民主主義はもっと上手く機能するだろうと私は思っている。

最後の主張は正しくないと私は思う。州レベルでも連邦レベルでも、「立法府」において有益な熟議が行われているのは、実質的に政党内の政策策定機関の中だけだ。そして、政党規律〔つまり党議拘束〕によって所属議員に政党の決定に従った投票を行わせることができないなら、政党がわざわざこうした熟議を行うことはないだろう。

あるタイプの人々(ロブ・フォードのような)を政治から、あるいは少なくとも党首の座から追い出す、という有益な機能を政党が果たしていることも覚えておくべきだ。連邦議会の下院を見渡して今いる議員たちを眺め、非常に強い理想化を施した上でなら、政党規律を弱めれば「民主主義はもっと上手く機能するだろう」と想像するのは不可能ではないと思う。だが政党規律がなければ、様々なタイプの人々が国会議員になるだろうと認識しておくのは重要だ。現行の制度下では、政治家は一定の資質を持っていなければ政党から指名を受けられない。政党規律がなくなれば、そうした資質を持たない国会議員がたくさん現れることだろう。一面において、これは良いことかもしれない。だがロブ・フォードのエピソードが示しているのは、これが非常に悪い結果にもなり得るということだ。良い点が悪い点を上回るかを判断するのは非常に難しい。だが、政党に強い反感を持つ人々は、それを容易に判断できる〔つまり、良い点が悪い点を上回るに違いない〕と考えているように思われる。

例えば、シンガーによる「ポピュリスト」と「デマゴーグ」の区別を考えよう。確かに現在、連邦議会の下院にはたくさんのポピュリストがおり、ときに一線を超えた行動も見られる。法の支配に関して言うと、スティーブン・ハーパー〔本エントリ執筆当時のカナダの首相で、保守党党首〕の政治スタイルの特徴は煎じ詰めれば、実際には一線を超えることなく、一線を超えるギリギリのところまで近づくというものだ。そのため、ハーパーは保守党内で「ゲームズマンシップ」 [5] … Continue reading の文化を積極的に育んでいる。これによって当然、一線を超えた行動は増えている。同時に、保守党の議員たちは依然として、あくまでルールに則った行動をとろうとしてもいる(厳密にはルールに違反していない形で、ルールを巧妙に蝕む行動をとることが多い)。それゆえ、連邦の保守党には、フォードと友好関係を結ぶジョージオ・マンモリチのような議員がいないのだ。数週間前、トロント市議会で異様な光景があった。マンモリチが議長の指示を尊重することを拒否したため、議長がマンモリチを議会から退場させるよう警備員に命じると、彼がその警備員を暴力で脅かして、市議会が一時休会に追い込まれたのだ。

連邦議会の下院では、議員は少なくとも議長の言うことを聞くし、着席や発言の中止を議長から直接命じられればそれに従うだろう、と私たちは単純に当然視している(メイも当然視しているはずだ)。だがトロント市議会を見れば分かるように、これは民主主義の内在的な特徴ではない。最も基本的な議事のルール(議長の言うことに従うなど)すら守ろうとせず、民主的議論を文字通り不可能にするマンモリチのような人物を、トロント市民は喜んで当選させている。そればかりか、マンモリチを罰するための民主的メカニズムも存在しない。マンモリチは必ずや再選を果たすだろうし、マンモリチの選挙区の住民はそれを単純に気にかけない。この点で、マンモリチは真のデマゴーグだ。私たち(私を含め)はこの言葉をルーズに使いがちだが、連邦議会の下院に真のデマゴーグはいない。これは政党のおかげなので、私たちは政党に感謝しなければならない。

いずれにせよ、政党が時を経るごとにますます強力になっているのを観察しておくのは有益だ。選挙に関するデータベースを所有しコントロールしているのは政党なので、選挙キャンペーンがデータ・ドリブンになるほど、政党に所属しない議員が当選することは難しくなっていく。私見では、これはそれほど悪い事態ではないが、こうしたデータベースの利用を巡って政党がどんなルールを構築していくかは興味深い。今のところ、状況はちょっと混乱している。イヴ・アダムスが、オークビル北-バーリントン選挙区で党の指名を確保しようとしたことを巡って、保守党内で騒動があった。この騒動で提起された最も興味深い問題の1つは、アダムスが保守党の党員データベースであるCIMSを不公正な仕方で利用したとの申し立てであった。アダムスがルールに違反していないことは明らかだが、それはルールが存在しないことによる部分が大きい。このルールがいかに進化していくかは、民主主義の健全さにとって非常に重要な問題であると私は考えている。

[Joseph Heath, Thoughts on Rob Ford (vol. 3), In Due Course, 2014/5/3]

References

References
1 訳注:ロブ・フォードは2010年にトロント市長に就任し、2014年の市長選挙では再選を目指して出馬予定だったが、病気の治療のため選挙戦から撤退した。
2 訳注:トロント市長選での左派の候補者。ヒースは、再分配に傾倒しすぎているとしてチャウに批判的な態度をとっている。このエントリを参照。
3 訳注:実際にはフォードが再び市長選に立候補することはなく、2014年以降はトロント市議会議員として活動し、2016年に死去した。
4 訳注:上の動画では恐らく、周囲の議員すらフォードに不快感を示している様子が映されていたのだと思われる。
5 訳注:試合で勝つために行われる、反則とは言えないが、反則ギリギリであるような行動。ルールの文面には従っているが、ルールの精神には反しているようなプレイ。
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